いつの間にか前回、物語らしきものを書いてみてからひと月以上たっていました。ねこせん氏にスタァを戴いたの嬉しくてきっと書き上げようと目論んでいたのに。月日が立つのは早いなあ。(強引なまとめ

僕がなにか文章を書こうと思う時、それはある一つの壮大な文字列の一部分が、そこにあるべくしてあるような完全の形として想定されていて、構築されていて、しかし僕自身は文字列全体を想像していない、というような状態なのであって、それはつまり自分なりに考えたステキ文章が、それさえ文字として出力されればその他文章全体は自然に演繹してくれるだろう(部分が全体に一意に規定されるような完璧文章なのだから当然である!)という確固たる妄想の産物なのだけど、まあ現実はそう甘くないようです。(ところで現実とはなんぞや。甘くないものの集合だろうか。いやいや。

まあ何かを描くにせよ書くにせよ作るにせよ、頭の中では歴史に名を残す超大作になるはずだったもたちが、いざ出力し見返してみると案外面白くなくて、また作業しているうちは楽しかったものが、やりかけで中断し一晩寝ると、続きを再開する気に微塵もなれなくなっていて、ということは(少なくとも僕の)世の常であって、いかにそれを克服するかというのが当面の課題(もしくは人生の課題)となりそうではあります。おそらく、やりたいことを何処かでやらねばならないことに偽装するような手順が必要なのだと思います。僕の人生は有限なのだとか、続きを待ってくれている人がいるとか(それはないかなあ)そういう風に自分を追い込んで、追い込まれた自分と追い込んだ自分とのぐるぐる追っかけっこが、自分の内側において実行されるということ、それが自分の意図したことであるように意図すること、その辺がなにかやってくれるのでは、とか期待しています。祈っています。

最近半年くらいの僕の考え事はずっと、「思いつけないことは思いつけない」というひとことに支配されています。発端はまたまた円城塔なのだけど。
思いついていない事柄を意図して思いつけない以上、着想という概念は自意識のあちら側の出来事になるわけで、僕らの自意識が干渉できるのは、思いつく土台を整備してやること、自己の内外に環境を用意しやることのみとなるのだけど、そうしようと思うこと自体が、僕が思いつかなかった思いつきによって成っているということ。自分の傾向なるパラメータが僕の外にあること。(きっとサイコロだって考えている。)これは決定論的に世界は作動していて、そこに生じた意識が自由を幻視しているとかそういうお話とは若干異なっています。確率に支配された、場合の数的自由が約束された世界であっても、自意識の認識の範囲においてその自由幅は意味を持たなくなるという意味合いにおいて。僕らは不自由を認識させられている。不自由であることを選択させられている。そんなことをつらつらと考えています。考えさせられているのかもしれません。そして、そんな世界に自意識が生じる必然性は全くもってなかったはずなのに、そんな幻が生じている理由、その先に、この世界の束縛を受けない、外側からやってくる偶然としての魂の存在を希求したりするわけです。

あう、読み手を想定した文章の気持ち悪さよ。