意味は探してください。

締め切り間際に開き直ってぐちゃぐちょと書き連ねた文章が、見る角度によってはそこそこに見られたものだったので、それに味をしめた僕は特に何も考えずに書き始めてみる。皆さん、心してご覧になるよう。(いろんな角度を試しながら)
という書き出しで始まったこの文章なのだけれどもこの書き出しの信ぴょう性はいかほどなのでしょうかね、僕にはよくわかりません。(ああ便利かな入れ子構造に丸投げするメソッド)キーボードの上を猫が駆け回っていて、まあその猫は文法というものを心得ているのでまあなんとか読める文章を書きはするのですけど意味があるかは運次第。これがシェークスピアでないことはほぼ確かなんですけど僕は読んだことが無いのでまさかという事もありえます。ええと、シェークスピアってこんなのじゃないですよね?

ふぅ。

まああれだ、ちらちらとインターネッツで有名な方々のブログなりなんなりを読みながら考えたこととして、そもそもなんでこんな文章書こうと思ったのかなー、というのがあって、個人的な必要に迫られて書かれたものよりも、題材の選択に恣意性のがある文章(幸せとは何かメンヘラの人と話したのだけど、みたいなの)のほうが面白いとされたり共感されたりする(これは皮肉)のかなあとか感じ、でも今の僕はそういうのが苦手なので、文字通り手当たりしだいにキーを叩いてみているという次第です。特に面白くなりませんでしたけれども。
今更生きる意味とか幸せになる方法とか書けませんよ。そういうものはもうとっくの昔に諦めてしまっていて、何が書かれているものを読んでも、それは局所的に正しいだけだとか、本質的でなさを感じるだとか、そもそもはじめから間違ってるのではとか思ってしまうようになってしまっているのです。中学生の僕を思い出して最も痛々しいのがそこで、なにか形がほしいとか承認されたいというような理由で、言語で構成された虚構を生成し悦に入っていたに過ぎないのです。話されたものに普遍的なものなどありえないのに。記述可能なものは、決して全てではありえなくて、部分を切り取ったものでなければならないのです。

嘘がつけなくなってしまった。嘘をつき続けるのが難しくなってしまった。
嘘だけど、って言いたいのに。

これからの僕が、何かを記述するとするなら、それは自分の心情を添付した叙事文に徹することになるのではという予感がしています。(要は日記)それは、僕の知っているある人がそうしているのと同じ理由によるのかもしれません。(違うかもしれません。でも、そうなら少し素敵だし切ない)
そしてそれを避けようと思うなら、今書いているみたいに、意味なし冗句に逃げるほかない。僕は何も書いていないのだと信じながら、書かれる可能性がはじめから存在した記述を、偶然の先から拾い上げてくるようなものを書くしかないのです。僕にとって何の意味もない事を僕が心底了解した思考が、誰かにとって意味を持つことを祈るしかないのだ。それも自己犠牲でなとなく、承認欲と人を見下す錯綜した目線の果てに。

馬鹿みたいなことを書くつもりで、阿呆なことを書いてしまった。

にゃっか意味なしにゅーん