愛のスコール ことば味

雨が降っている。今日は少々肌寒く、昨夜、風呂あがりに飲む冷たい炭酸ジュース概念の誘惑に負けて買ったライチ味のスコールが、冷たい。美味しいけれども。
そういえばスコールって僕の生まれ故郷の街が原産だったな。と思い出す。パッケージの文字列を確認すると、確かにそうなっていて、遠く離れた2つの地点の現実を、あるやり方によって繋ぐ。強烈だ。
宮崎県都城市姫城町。だいたいその辺りが、少年時代の僕が過ごした場所だということになっている。

雨が降っている、とはどういうことだろう。そりゃあ、空から雨と呼ばれる水滴が落下してくる、そういう気象現象だろうとか説明されるだろうけども、雨が降っているという記述の射程は、通常意識されるよりも曖昧だ。どのように雨が降っているのか、どこで降っているのか。とか。別に語られる必要もない情報かもしれないけども。

そういう、雨の降る様子が、完全に記述されるということがありうるだろうか。それは、その一帯に存在する物質の流れが、全て書かれた時だろうか。もしそうだとして、その時、雨が降っているという記述は、何か意味を持ちうるのだろうか。全てがミクロのスケールから説明されきってなお、雨が降っていると語ることの本質は。

P ∨ ¬P
排中律。当たり前のように思われるこの論理は、数学的直観主義においては、認められないものとされる。無限というものがこの宇宙に予め用意されており、それを人類は部分的に認識しているのだとする実在論的な考えを退け、無限とは、際限なき作業の果てに可能的に、構成的に開かれているものにすぎないと考えるのだ。直観主義では、Pが成り立つことと¬Pが成り立つことが、無限を形式的に満たしていると、自明に言うことは出来ない。
それならば、きっとラッセルのパラドックスだって、それを生じさせる土台から切って捨てることが出来るのではないかと、ブラウワーなんかは考えたのでは、と僕は想像する。天才の胸の内を推察するなんて、凡人の僕にはちょっとね、と笑ってみる。

ところで、命題Pが成立しているとは、どういうことだろう。
命題P。
今は、雨が降っていない。
僕らに論理を、有用な形で与えたのは、きっと雨が降っていることを、雨が降っていることと切り出してくる抽象化とかいう作業だろうと、僕は思う。それは、言葉だ。
つまり、ある事態が成立するという時、ある事態は言葉の上に成立していて、その他の場所では決してあり得ない。だって、それなら雨が降る様子を原子のレベルでとうとうと語れば済む話なのだから。だから、事態Aの成立または事態Aの不成立が常に成り立つ、なんていう言説が、文字通り言語の世界にしかあり得なくて、現実の事象と対応するものではないのだとここでは言えるから、宇宙を支える象は、それを支える亀ごとひっくり返るのではないかしらと思ってみたりする。

すべての誤謬の根源は、存在と非存在が、たった二つで無限を満たそうと目論んだことなのではないだろうかと妄想をふくらませる。
僕はここにいる。生きているとか、考えているとか、そういうのでなくて、ここにいる。存在する。
このことが、一つの現実であり、同時にある抽象命題としても語られうるような、奇妙な構造をしているように思われること。意識には、大きさがないということ。雨が降っている、とは決定的に違う何かとして成立していること。
人間の自意識が、言葉と世界をつなぐような構造をとっている、もしくは必然的にそうならざるを得なかっただろうことが、あらゆる間違いの始まりだったのではないだろうか。

結局、なにもかもその辺のお話に放り投げることが出来るのでは、と、面倒くさくなった僕はこのお話ごと合わせ鏡の向こうに放り投げる。
僕ごときが考えて何になるのだろうと、僕のまともな部分がうるさいから。ゴミのような成績とったくせに。
やめよう、頭がわるいのは分かっている。そんなのはわかった上で書きたいことを書くくらい許されてもいい。

人間に与えられた物語が、帯に短く襷に長かったことは悲劇だけれども、物理法則くらいは、人間の知らないところで整合性を保っていてくれていると信じている。
だから、人はそろそろ、話すのをやめて石ころを投げ合うのが良いのではないかなと、これが僕からの提案である。

いつの間にかスコールが温くなってしまっていた。やっぱり、温くなるのは素粒子じゃなくて、スコールだよなあと、一気に飲み干す。ふぅ、おいしい。